山門の由来
あれは何時のことだったか、大坂夏の陣で豊臣家滅亡。家康公が亡くなって、3年後のことであったから元和5年(1619)の夏のことだったなぁ。伏見城の取り壊しが始まって、淀殿のあのきらびやかな住まいもあらかた解体され、城門もあちらこちらへ運び出されている暑い日のことだった。
ご家来衆を従えて、城内を見回っていた2代将軍秀忠公が、とある高麗門の前で足を止め、「のう権兵衛、そなた賤ヶ岳では槍一筋の功名美事であったそうな。今一度その腕前見たいものよのう。そなたの槍でこの俵をどれほど投げ上げられるかいのう。」田原本藩主・平野権兵衛長泰殿進みいで、「左様、俵を槍にかけてこの城門を越して見せましょうぞ」と。秀忠公「権兵衛、美事越えたら、この門はそなたの自由にしてよいぞ。」権兵衛殿、むんずと俵を槍の穂先にかけて投げ上げれば、みごと屋根を越え、お褒めに預かり門を頂戴したんだと。その高麗門が、今の淨照寺の本堂の前の山門。だから浄土真宗にはふさわしくない泥棒除けの鍵の模様の瓦が、使われていたりするんだよ。