不安の広がる世の中で 清岡隆文先生
五濁悪世のわれらこそ
金剛の信心ばかりにて
ながく生死をすてはてて
自然の浄土にいたるなれ
(高僧和讃 善導讃 注釈版聖典591頁)
これは親鸞聖人が、その生涯において作られた『和讃』とよばれる数多くの歌の一首です。
五濁悪世という表現は『阿弥陀経』の終わりに出ていますので、これによられたものでしょう。
またインドで仏教を説かれた釈尊は生前に、「わたしの死後、世の中が混乱し人々が不安に
おびえる末法の時代がやって来る」と予言をされているので、親鸞聖人は、いまこそが末法である、との意識を強く持たれていました。
その末法の様相が五濁悪世なのです。
末法の時代は一万年続くといわれますので、聖人の鎌倉時代、今のわたしたちの生きる時代も同じ末法の時代なのです。
その実情が五濁と示されています。
その五つのにごりとは、
① 劫濁(こうじょく)‥‥時代のにごりで、戦争や疫病や飢饉が多くなること。
② 見濁(けんじょく)‥‥思想が乱れ悪化する
③ 煩悩濁(ぼんのうじょく)‥‥貪り、怒り、猜疑心などが燃えさかる。
④ 衆生濁(しゅじょうじょく)‥‥衆生の心がにぶく、身体が弱く苦しみが多くなる。
⑤ 命濁(みょうじょく)‥‥衆生の寿命がしだいに短くなる、の五つをいいます。
いまわたしたちの生活、人間関係そして社会や環境におもいをめぐらすと、思い当たることばかりではないでしょうか。
そしてこのような世相を反映して人々は相互不信となり、自己本位となってみずからの殻に閉じこもる傾向が顕著になっています。
あてになるのは自己自身、そして身近な家族だけということになりかねません。
人生は旅だといいます。旅には行き先があり、ただ目的もなくぼんやりと歩いているのは旅といえません。
このわたしはいったい何処へ向かって歩んでいるのか、がはっきりしません。
そのために「死んだらしまい」と、考えることを放棄していませんか。
それでは生まれ変わり死にかわりいつまでも迷いの苦しみから抜け出せません。
また心通わせて生活する家族も、究極のよりどころとはなりません。
みんな離れていき、別れがやってきます。
そのようなわたしの生き方を黙視することができず
「まかせよ、すくう!」との呼かけが南無阿弥陀仏なのです。
そのはたらきを素直に受け入れることが信心です。
阿弥陀如来のおこころがいただけることで他力信心、
それはなにものによっても妨げられない、ゆるぎない信心ですから金剛の信心なのです。
その信心をめぐまれることによって、まず生きるうえでの根本の不安が取り除かれ、
そこに安らぎの人生がひらかれ、やがてこの世のいのちが尽きる時、
必ず浄土にいたるのです。
その浄土について先の和讃では「自然の浄土」としめされています。
この自然は〈じねん〉と読みます。
今、わたしたちを取り巻く自然環境が破壊され続けています。
それは「五濁悪世」と指摘されたうち①劫濁に関連します。
各地における大規模な地震・台風の頻発、
それに伴う災害の発生も、地球全体におよぶ温暖化現象に基づくといわれ、
人類生存にかかわる深刻な問題となってきています。
そして新たな疾病の発生です。地球上の人間が増え続けることによる感染症の拡散です。
いま、わたしたちはコロナウイルスによって 苦悩を深めています。
「自然」とは人間のあらゆる能力を集結させた英知をもっても完全に把握し、
その支配下におくことができないのを本質としています。
浄土(真実の世界)に心がひらかれることによって、わたしたちの現実の生き方が見えてきます。
『歎異抄』では、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界」との表現をもって、
わたしたちと、この世界をとりあげます。
「煩悩具足の凡夫」とはあらゆる煩悩(心身をわずらわし、なやますはたらき)
を本来そなえた凡夫(その煩悩に束縛されて生きる愚かな人)こそ
わたしたちのすがたであります。
「火宅無常の世界」とは、火に包まれた家のように、すべてのものがたちまちのうちに
変転するこの世の中のことです。
そして「よろずのこと、みなもって そらごとたわごと、まことあることなきに」と示されます。
すべてはむなしく、すえとおらず真実というものは何ひとつないとして、そのなかにあって
「ただ念仏だけが真実である」と気づかされるのです。
念仏、いま縁によって不平、不満愚痴が尽きない、このわたしの口からこぼれでる
南無阿弥陀仏は、真実の世界(如来)からこのわたしにむかってのはたらきかけ、
めざめさせようとのはたらきなのです。
今、わたしたちはそのはたらきをいただくままに自然の浄土にむかう、
ゆるぎない生活が約束されています。