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ご縁

  「今日は縁起が悪い」とか「運が悪い」などという言葉が日常的に交わされていますが、 「何かが起こった時・結果(果)は、もともとの原因(因)にさまざまな条件(縁)が重なったことで生ずる。」とお経に示されてあります。

しかし、私たちは、結果が自分に都合良い時は、あまりそのことを深く洞察することがなく、結果が悪い時は、その理由を外側にのみ探そうとする性質があるように思えます。

さらに経験や知識から培われたことこそが全てであると錯覚していることが、それを超越した状況に陥った時、条件・過程を無視した不条理な原始宗教的・シャーマニズムとも思しき考え方に傾倒していくことすらあり得る危ない存在ともいえます。 科学の粋ともいえる飛行機の座席に4や13が無いことや、グローバリズムが提唱されながらなお、日本国内限定の六曜を信奉する方々。家相や風水など枚挙に暇がありません。

それでは、「ご縁ですね」という時は、いかなる状況でしょうか? 少々意地悪な見方をすれば、この言葉を発する時は、自分にとって好都合の時といえます。 悲しいことに出会ったときに、この言葉を聞く事はありません。

仏教における縁(条件)は、二つに大別できます。 一つは与力縁。もう一つは無障縁です。

朝顔の花が咲く過程を通じて味わって見ます。 植木鉢に根が張りやすい土をいれ、種を蒔きます。適度な肥料と水をやり、日当たりの良いところにその鉢をおきます。 芽が双葉から成長し蔓がのびるころ、巻きつく竹を添えます。 朝夕の水遣りは、欠かせません。ようやく暑い夏になり、早朝美しい花を咲かせるようになりました。 これは、全て与力縁です。 では、後者の無障縁はというと、台風が襲来しなかったこと。青虫が葉っぱを食べつくさなかったこと、子どもがサッカーボールを蹴り入れなかった事。断水にならなかったこと。 種(因)にこのような条件(縁)が重なり花が咲きました(果)。 目に見える縁・感じることが出来る事とそうでないことが重なり合ってその結果が生まれる訳です。朝顔の成長を例にとりましたが、実は他ならぬ私自身に常に起こっている現実でありながら、見過ごしがちなことといえましょう。

この世に生まれてきたこと。(因) 生活(縁)。そして様々な縁を頂きながら、死を迎えます。(果)

しかし、「必然の死」そのままの私は、すでに阿弥陀さまに抱かえられ、「そのままで大丈夫、必ず救う」とお約束されてあります。 私たちは日々の生活で、自分の都合という物指しの全てを取り払うことは出来かねますが、その悲喜交々の縁を大切に頂いてゆく眼(まなこ)を仏様のお心を通じていただいているのです。 かけがえのない人生を他人任せにするのではなく、阿弥陀さまのお慈悲のお心に照らされているからこそ自由且つ丁寧に歩んでゆくことを頂戴して行けるのです。

浄土真宗の教章末に「深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷やまじないを行わず、占いなどの迷信にたよらない」と謳われたお心がそこにあります。 二度と無い尊い今日を阿弥陀さまに照らされ導かれながら、大切に過ごさせていただきたく思います。