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田原本に二人のお殿様  (1)

田原本御坊浄照寺は、浄土真宗の他の大和御坊四ケ寺より歴史が浅い。かえってそれが、独自な歴史を展開させている。そのひとつに、その前史が重要な意味を秘めていることが挙げられよう。

その前史はさらに二段階となる。具体的には、前史その一は、慶長七年(1602)田原本領主平野長泰による佐味田村教行寺の招聘、その二は、慶安四年(1651)二代長勝による円城寺の創建である。その円城寺が延享三年(1745) 寺院本末御改めの節不行届」(本寺蔵「浄照寺由緒書上控」)きをし、翌年寺号改め浄照寺が誕生するのである。今回は原点であるその一を述べよう。

初代長泰が田原本村に領地を得るのは、豊臣期の文禄四年(1595)で、徳川氏の天下になると大名待遇の交替寄合衆に遇にせられた。その長泰は、将来の転封を期待し、田原本には居住せず、留守の領内の政策の一端(寺内町)と、宗教的・精神的な統治をゆだねるために、佐味田村教行寺を田原本村に招致した。その条件は「寺内(町)ハ三町四方」とし、「一町四方ハ寺坊屋敷ニ年貢ナシニ寄付」した。(「教行寺略記写」「河合町史 史料編」)これは教行寺にとって寺内町経営可能な条件であり、寺内町の年貢取りたての特権を得、現実には「町家の者共右教行寺殿のご支配」となり(小林敏良文書「田原本町史 史料編二」)、「領主―庄屋-村方、教行寺-町年寄-町方の二元政治」(田原本町史 本文編)化現象を呈した。町民・門徒が教行寺を慕っている状況が伺える。まさに田原本に、村方と町方の二人のお殿様が共存する状態となったのである。

二代目領主平野長勝としては、当然この状況は許せる筈なく、正保四年(1647)教行寺を旧地佐味田村に戻した。この時点で、田原本の「二人殿様状態」は消滅した。さらに、長勝は教行寺跡地を二分し、浄土真宗円城寺(浄照寺の前身)と浄土宗本誓寺の二寺を建立した。これは平野氏が、中世的な寺内町の残滓を完全に消滅させ、近世的な寺内町を誕生させようとした宣言と解される。と同時に江戸幕府による本願寺の東西分割に習ったような分断支配を、平野氏にも見るものである。

このように解釈すると、以上の宗教政策と、教行寺を引き払わせた翌年慶安元年(1648)田原本経営の基点である陣屋の構築という政治政策とが、連動しているのが見えてくる。すなわち、この前後に田原本の本格的な近世の幕開けを感得するのである。 <河野昭昌>