九品寺惣道場 了賢寺の寺号獲得 (2)
浄照寺の前史としての円成寺に関しては、浄照寺と寺号変更の事情からか、残された文書・記録は少なく、本願寺の記録に若干書き留められている。
今回は浄照寺に残っている円成寺時代の文書のうち、正徳元年(1711)に本願寺から円成寺末寺の了賢寺へ発給された「了賢寺木仏并寺号認可状写」より、いろいろ探ることにしよう。
「端書之無し
木仏并に寺号了賢寺ト願の通り言上を遂げ候処、此節御用多く候故、御礼御判形にて、先ず御免なされ候間、有り難く存ぜらるべく、追って頼みの節御染筆成し下さるべく候、不宣
正徳元卯年六月十七日 池永主税 名乗書判
九品寺村惣道場了賢寺」
大和国の浄土真宗は、興福寺の勢力の関係から大和盆地の南半分以南において芽生え、室町後期より数多くの村落で有力な百姓が財政的に中心となって道場が設立され、それが村人の寄合の場所となり、信心のみならず社会生活の中心となっていった。江戸期に入ると、御坊の末寺・配下の惣道場の門徒は、各々が浄財を出し合って本願寺に承認された寺に昇格しょうとして、信仰的にも経済的にも結束していった。道場から寺への昇格と承認の証しが、木仏=木像の本尊を安置することと、寺号の認可である。九品寺村の惣道場がこれを求め、木仏の安置と了賢寺という寺号が認可されたのが先の文書である。この免許には、願主九品寺村の門徒から本山西本願寺への礼金を必要とした。これより約五十年前の寛文二年(1662)には、木仏の礼金は金小判三両・銀百二匁、寺号には金小判三両・銀六十匁(岡山県浄心寺文書)であった。この本願寺への冥加金の他に、取次を依頼した上寺の円成寺と本願寺の坊官へも礼金を納めている。江戸中期の安永九年(1780)浄照寺には末寺八ケ寺と触下五二ケ寺が属していた。(浄照寺由緒書)その末寺の中で了賢寺が最も早く寺号を得ている。(浄照寺蔵「御坊付末寺触下地頭付寺号年暦控」)これは、九品寺村の信仰の篤さと経済的裕福さと人情のまとまりの良さを示す一例であろう 2000年2月