-『御坊』とは- (3)
淨照寺の歴史を明らかにするには、その前提として、いくつか押さえておくべき事柄がある。そのひとつに、浄土真宗内での独特な「御坊」という一種の制度ないし尊称である。この御坊は、江戸時代の本末制と触頭における中本寺と関わり合う性格を持つ。
江戸期の宗教界は、幕府の政治体制への組み入れによる宗教統制下にあり、寺院は必ずある宗派に属し、幕府寺社奉行の下に、本山―中本山(寺)―末寺―孫末寺という本末制に組み込まれていた。幕府のもうひとつの宗教統制は、触頭制度である。幕府寺社奉行は、各宗の本山に小触頭を設置させ、領主と教団との連絡事務を携わらせた。これは幕府権力による身分制支配体制の一環と理解される。
幕府がこういう本山と末寺の間に中本山を創案している一方で、浄土真宗本願寺派では、大和においては、戦国期に真宗教線の基点吉野と河内を結ぶ国中に有力道場がいくつかあった。それらの中御所の円照寺は顕如(寛永七年迄)の時、高田の専立寺は准如(寛文二年迄)の時御坊になったように、幕府の宗教統制の本末制と触頭制と相前後して、直轄寺院御坊を設置している。この御坊(掛所とも称する)とは、寺院住職や門徒から願い出て、門主がその寺院の住職を兼帯するという形式をとり、従来の常住する住職は門主の留守居という立場となり、御坊お留守居と呼称し、栄誉的彩色が濃い。
本願寺は前代から真宗の勢力の強い地域に、幕府の本末制・触頭制という宗教統制とは異なる中本寺として御坊を設置し、触れ下数十ヶ寺の取次ぎに当たらせた。田原本御坊は、磯城郡・天理市・橿原市・桜井市・北葛城郡・生駒郡に亘る触れ下七十二ヶ寺の取り次ぎを担当していた。 2000年