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初代住職 慧猛は本願寺院家東坊より (4)

圓成寺を改称して新たに淨照寺が誕生するのは、延享四年(1745)頃である。初代住職として白羽の矢が立ったのは、本願寺の院家寺院「竹林東坊蓮蔵院」第十六代住職専海の実子慧猛であった。専海初め子宝に恵まれず、能登国専正寺の息信慧を養子とする。先妻なきあと後妻との間に一子恵まれる。即ち慧猛である。ときに享保二年(1717)。既に養子の信慧が東坊を継いでいたので、慧猛は近江国勝安寺の養子となり、後大和国吉野の正福寺に住む。
 東坊蓮蔵院開基信光は、宇多天皇皇子敦實親王7代の孫佐々木経高の息で父の歿後叔父の四郎高綱の養子となる。子無く東坊住職を高綱の次男泰高(信願)に譲る。共に親鸞聖人の直弟子である。東坊16代住職専海は、慧猛を本願寺第13世良如宗主の猶子として、田原本御坊へ派遣下さるよう願い出て聞き届けられた。淨照寺には、慧猛に関する文書が数点残されている。その一つが寛延3年(1750)本願寺門跡よりの「宗判証文」である。
 「大和国十日市郡俵本本願寺御門跡懸所坊留守居を淨照寺慧猛に申し付け置き候間宗旨判形等相違無く仰せ付け下さるべく候、後証の為件の如し
     本願寺御門跡内上田主膳 ㊞
   寛永3年庚午2月
    大乗院御門跡内御役人衆中」
 本願寺より興福寺大乗院へ田原本懸所御留守居の承認を求めているのが注目される。当時の大和の勢力地図からは、奈良奉行所か郡山藩へならばうなずける。これは、これは、江戸時代にも、興福寺が大和に一定の勢力を持ち得ていたことの証であろうか。
 さて、慧猛は、安政5年(1776)59歳で往生した。その1年半前に2代目住職を3男恵門に継がせる「遺言書」を今井・畝傍・高田・御所の各御坊に宛てて書き残している。ともあれ猛より淨照寺の歴史が始まったのである。
(2000年月「いちょう」第4号掲載分)