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二代目 慧聞の功績  (5)

二代目は何かと問題にされることが多いが、淨照寺の場合はどうであったろうか。前号で初代慧猛が、3男慧聞に2代目を継がせることを「遺言書」で明言していることは述べた。聞は、慧猛と江州長田村(現、近江八幡市)の佐々木太右衛門の娘との間に、宝暦7年(1757)誕生。「正等坊」と称し、「式部」という官途名を持っていた。明和6年(1769)数え年12歳で自剃刀許可。(淨照寺で得度)
慧聞の在職は、17世法如・18世文如宗主の期間である。この時本願寺では、5年間に4代の宗主の交替という異常な時期であった。田原本御坊お留守居としても問題の多い多難な時代であったようである。

一番目は、配下寺院の諸問題である。門徒の浄財により寺号を許され、惣道場から寺院に昇格したのに「貧地故自庵ニハ相続相成難シ」という理由で住職が退寺するということが起こり、奔走の結果門徒の願いどおり寺号を維持できるようしたこと等である。(「大和国諸記」)

二番目は、大和国の興正寺末寺の組織やしきたり無視の問題である。たとえばお盆の法会に燈篭を釣って行う「燈篭会」は、本山及び五ヶ所御坊独自の法会であった。しかるに無断で興正寺末寺で行われ始めたので、他の御坊と共に南都奉行所等へその禁止を願い出ている。また、曽根村名称寺と五ヶ所御坊との間に紛争が絶えなかった問題等々。

三番目は、財政悪化の田原本藩より本山へ金子の拝借の仲介を依頼されたが、本山から「相調え申し難し」と拒否され、間にはさまって困惑したこと。

四番目は、近代真宗史上最大の論戦たる三業惑乱に巻き込まれたことである。

慧聞は、「淨照寺由緒書」等の諸記録を精力的に認めている。もしこれらの記録がなければ、淨照寺と末寺や配下寺院との関係を浮き彫りにすることは不可能であったろうと思われる。淨照寺史にとって特筆すべき功績を残している。                2000年12月