圓成寺より淨照寺への真相 (6)
本願寺資料研究所のご好意により「西本願寺文書」を閲覧する機会に恵まれ、淨照寺の歴史にとって重要なことが数多く発見できた。それらの中で最初にお知らせすべきことは、淨照寺の前身圓成寺からの寺号変更の原因と時期であると思われる。
この寺号変更の前夜ともいうべき延享年間(1744~48)は、圓成寺と本山との間で何かぎくしゃくしているようである。その気配が、次の二点が本山よりの書状で推察される。その一点は同元年10月、田原本御坊御留守居役知宣に他出を公用では制限し、私用では一切禁止していること。もう一点では翌々3年6月、9代将軍徳川家重への「代替」で末寺の「誓詞」を持って「上京」せねばならないのに実行せず、「早々上京」せよと命じていることである。このように御坊御留守居が、本山から続け様にきびしく命令されているのは、異例中の異例である。ここらあたりに、寺号変更の伏線が潜んでいるように推測される。
この不穏な関係が、2年後の寛延2年(1749)になると、一挙に吹き出してくる。本願寺から6月3日付けの紀州焔善寺への書状が圓成寺知宣と「町在同行・触下末寺」を呼び寄せ、本山の意向を提示。知宣と町在同行は承諾したが、10ヶ村の触下・末寺は承諾しなかった。そこで平野藩重役姫嶋氏が「示談」を申し入れたが、双方とも聞き入れなかった。これから見えてくるのは、町方の門徒は圓成寺知宣に味方したが、他村の末寺・触下寺院が反対していて、他の御坊や平野藩の仲裁では収拾がつかないので、わざわざ本山から使僧が派遣されるほど紛糾していたことである。残念ながらその原因と2派に別れた詳細はわからない。
問題の結論が出るのは、一挙に本山から他の御坊にあてた6通の書状・覚が発信された11月21日であった。その中で特に留意すべきは、高田・今井・御所御坊あての「書状」で「俵本御坊御留守居相究る」まで本願寺内「東坊弟淨照寺」を「俵本御坊へ御差遣」という記述、高田御坊専立寺あての「覚」で「知宣儀御坊寺内ニ隠居」の儀で「上京」が要請されていることだろう。このように少なくとも寛延2年、本願寺内東坊の弟・淨照寺慧猛が、田原本御坊の御留守居役に任ぜられ、前御留守居圓成寺知宣隠居の件が検討されていた。
今回の本願寺史料の調査から、圓成寺より淨照寺への寺号変更は、圓成寺知宣と本願寺との摩擦から生起し、それは従来の延享4年より2年後の寛延2年と理解される。 2001年5月