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権威と連帯の中御留守居継承 (7)

淨照寺2代目慧聞は男の子に恵まれず後継者に悩まされた。
当寺に「泰恵一件御本山御願之控」1冊が残されている。
これと「西本願寺文書」の「大和国諸記 長御殿」とにより、御坊が御留守居の後継者=新発意を決める経緯を、本山・他の御坊の動向をも含めて述べてみよう。

文化3年(1806)父恵猛の実家京都東坊次男?「泰安」を新発意として本山の承認を得たが、5ヶ月後には離縁している(「諸記」)。
その後まもなく本山の「許容」を得て、泰安の弟・東坊の三男?「真授」を養子・新発意とした。
しかし、「不心得の筋出来致し」、また離縁のやむなきに至った模様(「控」)。この前後、恵聞は「眼病等」で「難渋」し、回復の見込みもなく、その上後継者をめぐり二転三転の辛酸をなめる。

播州大塩村(姫路市)明泉寺の次男「泰恵」(29歳)を養子に迎え、
娘「理江」の婿として新発意に「取立」たいので、文化4年(1807)10月「先規」の通り「堂達・常末」「自剃刀御免許」の願書を各御坊の連印で、御本山へ差し出している。なお称念寺は、この願書に畝火御坊信光寺の「印形」がない断りと、できるだけ早く届ける旨の「一札」を添えている(「控」)。これは本山に御坊御留守居を承認してもらうには、他の四御坊の同意が必須であることを明示し、御坊同士の連帯を浮き彫りにしている。また称念寺は、恵聞が「眼病等」で歩行が困難なので、代わりに「養子泰恵同道」で上京する許しを同月28日に願い出ている(「控」)。

翌11月6日午後2時より、本山役人宅で自剃刀御免・堂達・常末の承認が本山役僧から伝えられている。
翌7日午前10時、役僧の案内で虎ノ間から雀ノ間に至り御印書処に控える。御対面所において19世本如御門主様の前で、下間按察使の「披露」により、「和州田原本御坊御留守居淨照寺新発意泰恵、自剃刀并堂達本座常末、御免有り難く存じ奉り候」と申し述べたと記されている。

翌8日午後2時、「自剃刀御免一件達状」(裏印有、淨照寺蔵)が手交され、「御留守居御達状壱通」は、後日使僧が田原本御坊へ届ける旨が伝えられた。わざわざ使僧が淨照寺まで持って来て、配下の法中(僧侶)や門徒に披露するのである。これらの「御免書類」の宛名が、御留守居と「門徒中」が併記されているわけである。

ともあれ、この新発意就任の格式張った儀式次第から、御坊と本山との基本的な関係が推察される。この「泰恵一件御本山御願之控」は、御坊同士の相互扶助、そして本山への手続きの煩雑さと、承認の過程の仰々しさをよく示してくれる貴重な記録である。          2001年7月