「天輪王之尊」出現と真宗 (8)
今回の「西本願寺文書」調査で、浄土真宗と天理教に関して従来知られていない事実が発見できた。
それは、5代目眞惠が慶応3年(1867)庄屋敷村(天理市三島町)「天輪王之尊」に関して本願寺に報告し、本願寺がそれに応じて探索している一連の史料である。慶応3年7月9日付けで本山へ「庄屋敷村百姓某」つまり中山みきが「天輪王之尊」と称して、人々を惑わし、その中に門徒も多くいて、「御寺法」に背き嘆かわしく、更に調査して上京の上報告するという書簡を出している。これは、2年前、田原本御坊配下の法林寺・光蓮寺(共に天理市)の両僧が「白刃を突き立て、難問を吹き掛け」て「論難」(『稿本天理教教祖伝』等)していることが影響しているかもしれない。眞恵の報告で使僧妙覚寺へ「淨照寺共篤と示談の上、郡村所名主・領主・地頭等に具に聞き糺し申すべき、その上二而別段御門徒の心得違いの族ハ、追てお取締のご教諭あるべく候」と領主等を巻き込んだその対応策を要請している。
本山から派遣された妙覚寺は、翌月の8日に「取調書」えお提出している。それに「百姓 善右衛門・同人母・并妹」と名指した上で、「医薬療養を相用いずして病気を平らげ、荒れた田畑の水損・干損・蝗虫の患いをなくし、肥養を用いず豊熟にし」等と現世利益を説くと報告している。
幕末のこの段階で天理教に対し既成教団がこのように対応している事例は把握されていない。その意味で近代宗教史上においても、意義のある貴重な文書と推察される。 2001年9月