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五劫のすりきれ  2006/12/2

報恩講真っ盛り。各ご家庭でお正信偈さんとご文章の拝読。
連日のお勤めに、ふと気付かされる「慣れ」という私の心。

いよいよ報恩講も始まろうかという時、
「報恩講は親鸞聖人のご遺徳を偲び大切に勤めさせていただく仏事。
頑張っていこう。」と勇んでいたのも束の間・・・。
毎日、毎日の繰り返しに、疲れが重なり、いつの間にかお茶の時間だけを楽しみにしている自分がありました。
情けない・・。
そんな自分にもお正信偈さんの御文は語りかけて下さいます。
 
 五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方

 (ながき思惟の ときへてぞ  この願選び取りませり 
   重ねて さらに誓うらく わが名よ ひろく聞こえかし)

ここに説かれてある五劫という御文は、遥か長い時間ということです。
どの位長いかというと、四十里四方の岩に三年に一度、天女が舞い降り
その衣で岩を撫で、その繰り返しで、岩が磨り減り無くなるより長い時間が一劫だというのです。
その五倍の五劫というのですから、それはもう全く想像出来る時間では
ないのです。

それではなぜこのような言葉であらわさないといけなかったのでしょうか。
五秒でも五年でもいいのでは?
いいえ。私が理解できる、私が測れる時間では意味がないのです。
仏さまのご苦労を私が感じるには、理解出来る表現では駄目なのです。
そして何よりも、この私を救うためにはそれだけの時間が必要であると
いうこと。

仏さまから見た私の姿。いかに救いがたい存在であることか。
けれども、その姿を何よりも慈しみ悲しんでおられる仏さま。
何一つ確かでないものを仏と成らしめようと五劫が間、思惟(考え)され
選びとられたことは「念仏一つで、間違いなくあなたを救う」ということで
あったのです。
南無阿弥陀仏を称えていけよ、間違わせはしない。
決して見捨てず、導き、はたらき通しの親心に出遇っていくとき、
気付かされていく恥ずかしさと、確かに照らされてある温かさを感じて
いけるのではないでしょうか。

報恩講―恩に報いることの重みと難しさを、『本願のかたじけなさよ。』
とお示しくださった聖人のお心を味わいながら、
大切に勤めさせていただきたいものです。
                                釋光乗