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埃 (ほこり) 2006/12/12

12月に入り御門徒さんのお宅にお邪魔すると、真白な雑巾や洗剤などが目につくようになりました。また、雑巾を片手に慌しく出てこられる御門徒さんを見ると、いよいよ今年もあとわずかと感じられる時節となりました。

京都の本願寺でも、ご家庭の大掃除にあたる御煤払いが今年もおこなわれます。多くの門信徒の方々が白い割烹着姿で、細長い竹を持ち650畳近くあるお御堂の畳を一斉に叩き、一年間の汚れを落とします。

私も何度かさせていただいた事がありますが、舞い上がる埃の多さに驚かされました。
普段生活している中で見えない埃を私はなぜ見ることができたのでしょうか。勿論、多くの方々が畳を叩いたお陰で見る事が出来たのは確かですが、それだけでは十分でありません。
そこには外から差し込む光があったからだと思います。
私はその光景を見て、次の和讃が思い出されました。

「無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す
   愛憎違順することは 高峯岳山にことならず」 (正像末和讃)

この和讃は、仏様の光の中で親鸞聖人自らの心のありようを厳しく見つめられたものと思います。煩悩の数は108とも言われていますが、聖人は計り知れない煩悩が、自らの心、体の隅々まで満ちているとお伝え下さいました。また、その心を険しい山々と表現され煩悩が激しく燃え上がる様子を書かれています。

人間は生きている限り、悲しみや心配事が尽きる事はありません。
臨終の間際までその心から逃れる事は決してできません。
それどころか、塵・埃のように最後まで次から次と溢れ出てきます。
親鸞聖人のお書きになったこの和讃には、仏様の光の中で生き、見えてきた自らの恥ずかしい心への悲痛な想いが書かれているのです。

しかし、聖人のお示しはそこに留まりません。
それにも増して、そこには仏様の大きな慈悲に照らされる事への
報謝の心があります。
仏様は心の埃を無くせとは決して要求しません。
要求するどころか、その大きな慈悲で私を包みこんで下さり、
そのままの埃まみれの姿で救いとって下さるのです。

仏様の光の中で、親鸞聖人がお示し下さった自己の心の真実のありようと仏様への報謝の念を頂く時、畳を叩ながら光に照らされている埃が、
なんとも温かなものとなって下さいました。

                                釋 廣樹