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一年の計は 元旦にあり  2007/1/1

「1日、日が変わるだけなのに、どうして毎年こうも慌しく準備をしなければならないのか」と年末の挨拶のため、お寺にお越しくださった方が、ひとしきりお話くださいました。

確かに、スーパーなどの毎日の生活に欠かせない店舗も元日営業が年々増え、今まで手作りであった「おせち」も有名料理店の異常とも思える金額のものから売れていく現状を見るにつけ、手間隙をかけて各家の味やこころを伝え、新年を寿ぎ、志しを新たにすることが難しく見え辛くなってきたように感じます。
とはいえ、昨年身の回りで起こったことを振り返り、年頭に立てた志の達成度を測ることの大切さに異を称える方はいらっしゃらないと思います。

ここに、私の生命を丸抱かえに、「そのままで良い」とのお慈悲のこころで安心を与えてくださる阿弥陀さまのお心を頂戴している私たちにとって、
「念仏者としての、たしなみは何か。」ということを年頭に当たり、味わってみようと思います。

お念仏の法は、「いつでも・どこでも・だれにでも」すでに届けられていますが、この言葉のままでは、第三者的というか、どうも向こう側に追いやって私が置き去りになってしまいがちです。
しかしこの言葉を約めると、「いま・ここ・わたし」ということになります。
いま・ここの連続を生きる私に届けられた約束を頂戴した者としての
たしなみ。

妙好人の浅原才市さんは
              風邪を引けば せきがでる  
              才市が ご法義のかぜをひいた
                念仏のせきが  でる でる
とのお言葉を遺されました。

私は才市さんのように、お念仏のこころを素直に頂戴できるような身ではありませんが、せめて「お念仏申す稽古」はできるように思います。
南無阿弥陀仏の法は、お念仏申したから救われるという我が計らいが
必要な自力の救いではありません。
どこまでいっても阿弥陀さまの一人働きであり、私の救われる願いも行もすべて仕上げて私にお与えくださる他力のお法です。
だからといって、なにもしないままでお念仏の法が勝手にしみこみ、
お念仏が我が口からこぼれてくださることとは違います。
お聴聞を心がけ、お念仏申す稽古をさせていただく時、大いなるお慈悲のお心にふれ、「すでに救いのみ手」中にある私に気付かされてまいるように思います。
                               釋 智見

今年の淨照寺のテーマは、昨年通り「聞法第一」です。
副題は「お念仏申す稽古」といたしました。