彼岸からの御届けもの 2 井上見淳先生
お浄土から届く光
親鸞聖人はご著書の中でたびたび阿弥陀さまを光によって表現されています。
その内容を、先輩の中に「照育」「破闇」「摂取」の3つのはたらきに整理された方がおられますが、これは太陽のはたらきと重ねて味わうことができます。
「照育」とは「照らし育む」ということです。福岡の自坊の前にはかつて石炭を北九州まで運んでいた遠賀川という川が流れています。今年の冬は暖冬で比較的暖かかったとはいえ、やはり冬の時期は、その遠賀川の堤防は見渡す限り冬枯れの野原です。
しかし寒さがゆるみ始めた頃、待ち構えていたように春の若葉が芽吹きはじめました。
ところで太陽の光は、若葉が芽吹いた時からそれを照らし始めるのでしょうか。 そうではありません。冬枯れの野原の時から照らし続けていたのです。それによって地中では、私たちはわかりませんが、実はさまざまな変化が起こっていて、春の到来と共にそれが一斉に若葉となって芽吹いたのです。阿弥陀さまも同じです。「仏さんなんか」「浄土なんて」といってかたくなに私が仏法に背を向けていた頃から、阿弥陀さまは私に懸命に願い続け、「南無(まかせよ)阿弥陀仏(我に)」と呼び続けておられたのです。
私に念仏している今があるのは、そのお育てのたまものです。「照育」とはつまり「お育て」です。
次に「破闇」とは「闇を破る」ということです。仏教では私たちの根源に在り続ける煩悩による迷いを「無明(闇)」と呼びます。一方で阿弥陀さまのお悟りの智慧は「光」と表現され、どんなに深い闇であろうと、その光はかならず破ってゆくと説かれます。ところで、私たちはそれぞれに異なる「価値観」を抱えています。
しかし仏教ではその価値観が、仏さまの教えにまったく触れずに構築されたものなら、それは闇の中にいるようなものだと教えているのです。
一方、仏さまのお悟りの光に出あうとき、闇は破れ、私たちはこれまでいかに見当違いの方向を向いていたのかを知りますし、そう知った者は自然と光が差し込む方へと向かっていくはずです。また、その光は自分の真実の姿を明らかにしてゆきます。ご法義(み教え)をお聴聞させていただく意義は、ここに極まるのではないでしょうか。「死とは滅びだ」という者に、「死とは浄土に生まれる時だ」と知らせ、「気づいたら生まれてましたから、とりあえず死ぬまで生きています」と人生の虚しさを味わう者に、「人生とは真実なる阿弥陀さまに出あう場であり、その方に育てられ導かれていく道場だ」と教えてゆきます。また親しき人との死別を「永遠の別れだ」と号泣する者に、浄土という「再会の場」があるのみならず、先立った者は、「仏となって片時もはなさずあなたを見まもっているのだ」と告げてゆきます。 こう知らされた者はもはや根源的な闇が破られ、阿弥陀さまによって人生を意味づけられた者というべきでしょう。
最後に「摂取」とは、阿弥陀さまの救いを「私をつつみ込みぬくもりを与える」ものであると教えています。世間では賢い人、優しい人、仕事の出来る人が尊ばれます。逆に言えば、賢くない人、優しくない人、仕事がうまく出来ない人は生きづらく、世間の風当たりも冷たいです。
しかし浄土真宗というご法義は、そうやってつらい思いをしている「わたし」を目当てに立ち上がった如来さまのましますことを知らせ、「そのままでよい、そのまま救う」と告げてくださるお慈悲の世界を教えます。このあたたかなぬくもりが私たちを支えていくのです。
西方のお浄土から今私にこうして届く阿弥陀さまの光。
このことを味わいながらお念仏申し、またお仏壇の前にすわってください。
そして、このウィルスの騒動が終わったら、改めてお寺にお聴聞へ出向き、大切なことをまた確認させて頂きましょう。