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彼岸からの御届けもの 1 井上見淳先生

龍谷大学准教授 井上見淳先生

はじめに

 いま世界は、勢いを増して拡大する未曾有のウィルスと、出口のみえない攻防を続けています。

連日、国内外を問わず、暗い話題や、恐ろしいニュース、規制による不自由を伝えるニュースばかりが報道されていて、なんとなく息苦しさをおぼえる今日この頃です。

 ところでみなさん方は、いま生きているその「いのち」が、いつか最期を迎えることを知っていますよね。いつかやって来る「その日」のことを想像したこともあるでしょう。でも、この「いのち」の最期がまさか、こんな未曾有のウィルスによって終わるかもしれない、という想像をしたことがありますか?――恐らくはないでしょう。私もありません。しかしながら現実に、そうやって尊い「いのち」を終えていかれる方があれだけいらっしゃいます。

では、わたしたち仏教徒、真宗門徒はこのご縁に何を思うべきでしょうか。

 それはまず、「いのち」のはかなさを思うこと。

そして、このわが「いのち」もまた、「老少不定(老いた者と若い者と定まっていない)」に迫り来る「死」と別に存在しているわけではないということ。このことを改めて実感させていただくことが大切なことではないでしょうか。これこそ、お釈迦さまがおっしゃった娑婆世界に生きる私たちの「いのち」の実相(真実のすがた)でした。一方で、また大切なのは、この「いのち」は、たとえいつ終わるにしても、いったいどこに向かっているのか。そのことに思いをはせることでしょう。

 今年の「春のお彼岸」は、多くの方が例年とは違って、ゆったりと「お彼岸」を味わうことなく過ぎてしまったことと思います。そこで今、改めて「お彼岸」のことを味わいながら、わが「いのち」をつつみ込み、浄土へと歩ませてくださる阿弥陀さまのご縁に触れてみましょう。

 

 

足を止めよ

 昔から日本人は、一年に春と秋の2度、太陽が真西に沈むこの時期を「お彼岸」と言い習わし暮らしてきました。遠く夕陽を眺めては先に亡くなった方を思い、またみずからがやがて向かうお浄土に心をはせる時間を作ってきたのです。今でもこの習慣が受け継がれているのは、人々がそれをとても大切な時間だと身をもって実感してきたからでしょう。

 考えてみれば、お彼岸に限らずそういう時間を作ればいいのでしょうが、普段の私たちがしみじみと夕陽を眺めているかというと……、眉間にしわを寄せて「えーい、西日がまぶしい!」といってはカーテンを閉め、むしろ遮断していませんか。  汗をかき、舌打ちしながら仕事に走り回り、気がつけば身も心もすり減らして、まわりの人が振り向くほどの深くて重いため息の日々。

 車からの視界を想像してみてください。スピードを出し過ぎれば視野は狭くなります。 視野が狭くなるとは、見えていない部分が増えるということです。それを私たちの人生に置き換えると、見落としてはならない大切なものまで忘れて気づかなくなると言うことです。逆にスピードを緩めれば視野は広がりますし、いっそ止まってしまえばゆっくり見渡せます。しかし、そんな時間を作ることさえ、なかなか難しいのが私たちの日常ですね。

 「お彼岸」が大切にされてきたのは、そこに理由があるように思います。

つまり太陽が真西に沈むこの時期を「お彼岸」と呼ぶことで、猛烈に過ぎゆく日々にあって「足を止めよ」と教えているのではないでしょうか。そして、わが人生はどこに向かっているのか。わが人生を支えているものとは何なのか、今一度、確認せよと教えているのでしょう。私たちは真西に沈む夕陽を見てお浄土を思い、そこから私に届く光に阿弥陀さまの無量のはたらきを思わせて頂きます。