おかげさま真っ只中 2007/1/26
先日、母方の祖母が往生しました。大正3年に生まれ、戦争を経験し物の無い大変な時代を生き6人の子どもだけでなく、孫や近所の子ども達までも育て上げた方です。
私自身よく叱られ、今になって考え直すととても有り難い事だったと胸があつくなります。祖母は3年前より認知症となり、脳卒中など様々な病気にもかかり最後は病院のベットの上で家族の顔も解らずに往生の素懐をとげました。
おかげさま真っ只中
葬儀の行われた本堂に掛けられていた言葉です。
確かに祖母は子の顔も解らないままに、病床の中亡くなっていきました。また長期間の入院生活が壮絶なものだったと、小さく痩せ細った祖母の姿がものがたっていました。しかし、その死は大きな体を丸めて泣く叔父たちが小さく見えるほど尊いものだったように思えます。
では何故、祖母はそんなにも大きく見えたのでしょうか。
そこには祖母から頂いた大きな大きな「おかげさま」が詰まっているからだと思います。
祖母が居てくれたお陰で今私は生かされている。祖母が諦めず叱ってくれたお陰で今の私がある。そして、何より私にも必ず訪れる死というものを今一度考えさせて下さいました。いずれ私の命も必ずお浄土へかえる時が来る。普段、生活する中では見い出せない事を祖母は死を縁として「僕はどう生きたらよいのか」と味あわさせてくれました。
往生してもなお、いま生きている私に向けられた祖母の姿を思い返す時、祖母の為の葬儀だったのではなく、今まさに私に向けられた祖母の想いをいただく「おかげさま」の葬儀だったように思います。
往生した祖母は今まで以上により身近な姿となり、はたらき詰めでいつでもどこでも私の側にいてくださいます。手を合わせ祖母の想いに触れさせていただく時「さあ、心配する事はないよ。安心して生活しなさい。」とやわらかな声が聞こえてきました。その声はなんとも温かく、死という悲しみを越える尊いものでした。
おかげさま真っ只中、南無阿弥陀仏。おばあちゃんありがとう。
釋廣樹