親の心 子知らず 2006/3/1
桜の咲く頃、姉夫婦と甥が家に遊びにやってきました。
甥は日が落ちるまで外を走り回りじっとしている事をしりません。
ある日の夕方、外から汗だくで帰ってきた甥が風邪をひかないようにと
姉はすぐお風呂に入れました。
入浴後、のぼせた体を冷ましたがる子に待っていたのは湯冷めを心配しバスタオルを両手いっぱいに広げた姉です。それを見た甥はいやがって逃げ回ります。母親は声をかけながらどこまでも追いかけていきます。
やさしく粘り強く、決してあきらめたりしません。
そんな光景をみていて、「親様」という言葉が思い起こされました。
古くから浄土真宗では阿弥陀さまを「親様」と親しみを込めてお呼びします。それはいつも自分の事しか考えていない私を、あきらめず見捨てることなく私の命にかかりきりになってご心配くださっていることをお敬いの念から真(まこと)の親としてお味わいされたお言葉なのです。
阿弥陀さまは迷いの真っ只中にいる私たち衆生(生きとし生きるもの)を
仏となる身にさせることに、正覚のいのちをおかけくださいました。
それは仏様から向けられた願いにそむき、迷いの中にいることすら気づけない私であることをお見通しの上で、いただくだけのものとして全てをお仕上げくださいました。
その願いを父母を慕うがごとくお聞かせいただいた時、阿弥陀さまより呼びかけられ、願い続けられている私であったことに気づかされ、お礼のお念仏を申させていただく日暮しが恵まれてくるのです。
子の母をおもふが如くにて 衆生仏を憶すれば
現前当来とをからず 如来の拝見うたがわず
(高僧和讃)
釋 廣樹