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お浄土からの光を仰ぐ  2006/3/10

3年前に無くなった父の納骨のため京都大谷本廟に参詣いたしました。
当日は各地より懐かしい方々がお集まりくださり法要を済ませました。
住職であった父が生前、ご門徒様に遺骨のことを「抜け殻と同じでなにも宿っていないよ」と遺族が執着してしまう心をたしなめている場面に出くわしましたが、死後3年以上経過し落ち着いて法要に望んだはずの私は、あふれ出る涙を抑えることは出来ませんでした。
ところが単に悲しい涙なのかといえばそうではなく、あたたかい気持ちが同居している不思議な感覚をおぼえました。

私は小さい時から父に連れられて、ご門徒様の報恩講というご法事にお参りさせていただきました。「帰命無量寿如来~」出せる限りの大きな声で正信偈のお勤めをします。
それはご法事が終った後「よくがんばった」と褒められたいからなのですが、なかなか褒めてはもらえませんでした。
ある日の帰りの車中で父が私と同じように小さいころお参りを手伝った時の話をしてくれました。「あの頃は、手伝うのがいやでたまらなかった」と取り留めのない内容でしたので、そのときはあまり気にもしていませんでした。
しかしながら、先にお浄土に生まれた方々は、阿弥陀さまと同じさとりを得られ、私を支えてくださっているとお聞かせいただいている今、いつでも、どこでもお念仏の中に生かされて照らされてある私を頂戴していた言葉だったのだと気づかされました。
親鸞聖人が「某(それがし)閉眼(へいげん)せば鴨川にいる魚に与うべし」(私が死んでも、立派な葬式や墓はいらない。遺体は賀茂川にいる魚に与えよ)と厳しいお言葉をお示しになられていますが、実は阿弥陀さまの大きなお慈悲につつまれあふれ出た尊いお言葉であったと素直にいただいていくことが出来ます。
先日息子が「お父さんはお香のかおりがするね」と言われたとき、
父もいつもお香の香りがしていたことを、思い出しました。
                            釋智見