父親になり 2006/3/31
生まれたての赤ちゃんは疑う事もなく、無心に母親のお乳を求めます。また母親はそれに答えるように、ニコニコと子どもを見つめお乳をあたえます。私は隣でその様子を眺めながら、ウーウーと声にならない声をあげている子どもの手を握り話しかけております。小さな命が精一杯手足を振る姿はとてもいとおしく微笑ましいものですが、と同時にいずれはこの子どもとも別れなければならない時がくるかと思うと、何とも言いがたいさびしい気持ちにもなります。生まれたての子を前にこのような事を考えるのは、いささかおかしい話かもしれませんが、蓮如上人も御文章の中で「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」とお伝えくださっているように、いつどのようになるか分からないのが私の命です。では、私は不安定なこの命におそれ生きる事しかできないのでしょうか。
以前、法話で山本さんが「目的がはっきり定まっているからこそ(中略)充実した日々を過ごしているのではないでしょうか」と書かれていました。
ここでいう目的というのは、同じお念仏を喜ぶ私たちはお浄土で再び遇い仏様とならさせていただくことということです。もちろん不安定な命ということには何の変わりもありません。また病気や災害から逃れたりすることもできません。しかし、お浄土にまいらせていただくことができる私であるからこそ、安心して今を精一杯生きる事が出来るのだと思います。
子どもとともに阿弥陀様のたてられた願いにつつまれて、少しずつあゆんで行きたいと思います。
釋廣樹