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往生は めでたきこと?  2006/4/20

先日95歳になる祖母が往生いたしました。
昭和初期に淨照寺へ嫁ぎ74年もの長きにわたり、お念仏をよりどころにお聴聞と子育て、さらに院内の整備に明け暮れ、柔らかな時を過ごしておりました。
生前大病も患わず、ひ孫に対し「○○チャンの結婚式に出れるかなぁ」とまず100歳を目標として心身の健康に気をくばり、マスメディアや人から聞いた健康法を即座に実行しておりました。そんな祖母を見ていると、120歳位まで元気に過ごしてくれるかもしれないと、錯覚するほどでした。
しかし、寄る年波には勝てず、楽しみにしていたお聴聞、お朝事。大切にしていたお寺の見回りなどもままならぬようになり、日を追うごとに休む時間が増えてまいりました。
病床の身でありながら「いつも優しくしていただいてありがとう」と痛む体をものともせず、周りへ言葉をかけ続けておりました。
かくて4月3日、お念仏に支えられた95年の人生を終え、
お浄土に往生いたしました。

葬儀のとき、祖母のお聴聞仲間の方より「この度は、おめでとうございます。」と声をかけられ、ハッとしました。
あの優しかった祖母が亡くなった直後、感情の中には悲しさしか無く「おめでとう」という言葉にいささか違和感を感じました。
しかし今静かに、阿弥陀さまの前に額ずきお念仏申させていただくとき、阿弥陀さまの本願力で間違いなくお浄土に生まれ仏様のいのちをいただいた祖母(仏さま)は、すでにお浄土より「お念仏に包まれた人生を能く生きておいで」と私たちを照らし支えてくださっていることが少しずつ味わえるようになり、一旦の別れの寂しさとぬくもりが絡み合った不思議な感覚にとらわれています。
かつてご自身の葬儀のときは「お赤飯と紅白の大福餅をお供えしておくれ。」と遺言されたお念仏者がいらっしゃったとお聞かせいただいたことがあります。またお聖教に「めでたく往生」というお言葉がありますように、念仏者にとっての死は、お浄土で仏さまのいのちを頂戴することですから、死は単に消えてゆくことでもなく、不幸になることでもありません。
近しい者との別れはつらく悲しいことですが、阿弥陀様のお心をいただく者にとって、それでお終いになる寂しさだけが残るのではなく、「往生はめでたきこと」と味わっていける世界が広がっていることを確かめる大切な縁となりました。
再びお浄土で仏様となった祖母と再会したとき「ようこそおかえり」とにこやかに迎えていただけるよう、お浄土から私たちに向けられたお呼び声を聞き慶びながら人生の綾を織り成し一歩一歩お浄土への道を歩んで行きたいと思います。
                               釋智見