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み手のまんなか 2007/2/14

「何度か死線を乗り越え、過ぎ去った日々を思い返すことが多くなった今、ようやく阿弥陀様のご本願にお任せするより他ない生命であることを感じるようになりました。長年寺の世話役もさせてもらったけれど、若い頃は、やはり自力でないとと気張っていた時もありましたが、結局それも阿弥陀様の御手(みて)の中のことだったのだと気づかせていただきました」
八十代目前の矍鑠(かくしゃく)とされたご主人が、ご法事のときに
このようなお話をしてくださいました。

わたしは、そのご主人が、「ようやく他力のお心に出遇えました」と自らの慶びをお話くださったとき、今はお浄土に参られた東井義雄様の詩が思い起こされました。
今回はその詩をご紹介させていただきます。

 「老」を生きる身の上になってみて

(前文略)

それと もう一つ
「死」が迫っている事実をごまかすことは やめよう
この 自分でもいやになる 嫌われるのが当然の
こんな私が なお 祈られ 願われ おがまれ 生かされ
赦(ゆる)されてある ということは
「どこまでも 見放すことはないぞ」という
願いがあるということではないか
その願いの主に 「死」をも お預けしようではないか

私の妹が 一昨々年 乳癌の手術を受けた
近ごろは 高血圧でやすませてもらっているという
その妹からの便りに
「お互いに 先が 見えてきたようです」とあった
人生列車の終着駅が見えてきたというのだ
そして
  「ひび割れし 器の如き身なれども
    いつ壊れても み手の まんなか」 とあった

いつ壊れても み手のまんなかなのだ
ということは 「老」いている いまも
み手のまんなか ということだ
いま み手のまんなかに 生かされているから
いつ壊れても み手のまんなかなのだ
「老」も み手のまんなかの「老」なのだ
「死」もまた み手のまん中の「死」なのだ
「死」のときの苦しみ 「死にざま」は
私も気にならないことはないが
それもみんな
「み手のまんなか」のことなのだ
「み手のまんなか」で苦しみ
「死にともない」とわめきながら
「み手のまんなか」で
この世の終わりを迎えさせていただき
「み手のまんなか」に帰らせていただくばかりなのだ
事実 「死にざまなど気にすることはないのだよ」
といってくださっているのだ

「助けてくだされよというにあらず
  助かってくれよとある仰せに
   したがうばかりなり」 というお声
それが 南無阿弥陀仏なのだ
その お声が お念仏なのだ
この呼び声にであわせていただくために
ここまで生かされてきたのだと
気づかせていただこう

(東井様の詩は、ホームページ用に体裁を変更しています。)

                                釋 智見

 

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