いのちを いただいています 2006/6/11
昔から「大阪の食い倒れ」「京都の着倒れ」などという言葉がありますように、生きてゆく上での価値観はさまざまですが、人は衣食住のどれが欠けても健やかに生活することは出来ません。
心豊かに過ごすためには、「足ることを知り」バランスのとれた生活をいとなむことが理想ではありますが、実際はというと「足ることを知らず」して、まだまだとむさぼり続けている私です。
ちょうど先日、食について考える縁を仲の良い友人との食事に出かけたときに頂戴しました。
まず、食事をするとき、「飯(めし)を食う」「ご飯を食べる」「ご飯をいただく」と表現が違いました。
その上、食前に合掌した者と 「いただきます」という者と 無言ではじめる者がいましたので、おこがましくもこんな質問をしてみました。
「みんながいただく食事の意味は、① 餌を食らう時間 ②エネルギー補給の時間 ③いのちをいただき繋がせていただく時間、のどれだと思いますか?」と
旧知の友人ですから怒る事なくそれぞれの思いを語ってくれましたが、あまり食事に対して深く考えたことはない、という意見が大勢をしめました。
またその席でのぼった話題に、ある学校では給食の時間に先生がスタートの笛を吹いて始まるとか、また別の学校では親が給食費を払っているのだから「いただきます」を言わせるのはおかしいと苦情が寄せられたことなどがありました。
単に価値観の多様化という言葉で片付けてしまえるような簡単なことではないと私自身も深く考えさせられる食事会になりました。
朝焼小焼だ 大漁だ 大羽鰯の大漁だ
浜は祭りのようだけど 海の中では
何万の 鰯のとむらい するだろう
これは「金子みすず」さんの『大漁』という詩です。
この詩にひめられた想いは、人は一人では生きていけないし、人間同士の支えだけでも生きてゆくことが出来ないということ。ましてや命に軽重は無く、みな尊く掛替えのない命をいただいて生きているということです。しかし悲しいことに、そのことを知っていながら、蓋をし見て見ぬ振りをしてしまう存在であるのが他ならぬ私なのです。
生きていく上で避けられない悲しみや苦しみの本質は、わたしのものさし(我尺)では見える世界でなく、ほとけさまのものさし(仏尺・真実のまなこ)に照らされてはじめて知らされます。それは如来様に包まれながら「真実の世界に目覚めてくれよ」という願いがかけられている私に気づかされたとき、頂戴させていただける世界なのです。
このように味わってまいりますと、食事という毎日欠くことの出来ないことも「生命」ということを抜きにしてはいただけない大切な営みであることに気づかされました。
ですからせめて三度三度の食事のときは、丁寧に「いただきます」と賜った尊い命に対して、手を合わせ頂戴させていただく事が人として大切な
嗜みであることをあらためて味わわせていただきました。
釋 智見