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言葉の仏さま  2006/6/30

私たちの生活は言語によって成り立っているといっても過言ではありません。人や物、ありとあらゆる物を区別し認識することにおいて言語は必要不可欠です。それは言葉として発しなくても、目線や仕草だけでも心の中で言葉を用いています。
そして生きていくということは、この言葉によって励まされたり慰められたり、傷ついたり傷つけられたりとありとあらゆる感情がこの言葉によってもたらされています。

このことを考える時、阿弥陀様が「南無阿弥陀仏」という言葉の仏さまと成られた意味合いが「じわり・・」と沁みこんで下さいます。

阿弥陀さまは「いま・ここに・この私」と共に歩んで下さる仏さまです、と前回の私の法話で味わいを述べさせて頂きました。
阿弥陀さまはお浄土で待っているだけで、そこに来たものを仏と成らしめる、そんな仏さまではありません。また、あなたは○、あなたは×と合否をつける仏さまでももちろんありません。

全ての生きとし生くるものに「お願いだから救われておくれ。そして私と共に歩んでいこう。」とはたらき通しの仏さまなのです。
つまり「南無阿弥陀仏」とは、私と共に歩んでおくれと名乗られた言葉の仏さまでありました。

世の中には数限りないお母さんがいますが、私がお母さんと呼んで振り向いてくれる母は一人しかいません。当たり前かと思われるかもしれませんが、考えて見ますとこれは、結構すごいことのように思えるのです。私が生まれた時から願いのなかに「お父さんですよ。お母さんですよ。」と何度も何度も呼びかけられ、ようやく私が答える。その「お父さん。お母さん。」という言葉は決して私から発せられた言葉ではありません。
そしてこの「南無阿弥陀仏」のお言葉も「あなたは一人じゃないんだよ。私を親と思うておくれ。」と先手打って喚(よ)び続けられたおかげで至り届いてあるお姿でありました。
 
御文章に「御恩報尽の念仏と、こころうべきなり」とありますように様々な願いを「ありがとうございます。おかげさまで。」と受け取り生かされてある生命を見つめていきたいものですね。
                              釋 光乗