法話

トップ > 法話 > 転換   2006/7/20

転換   2006/7/20

しわがよる ほくろができる 腰まがる 頭が禿げる 髪しろくなる

手はふるう 足はよろつく 歯はぬける 耳は聞こえず 目はうとくなる

身に添うは頭巾 襟巻き 杖 眼鏡 湯たんぽ 温石 しゅびん 孫の手

くどくなる 気短になる ぐちになる 心はひがむ 身はふるうなり

聞きたがる 死にともながる 淋しがる 出しゃばりたがる 世話やきたがる

またしても同じ話よ 孫ほめる 達者自慢に 人はいやがる

これは、博多の禅僧仙厓和尚(1750-1837))が作られたといわれる
老人六歌仙です。
初めてこの歌に出会った頃は、祖父母や近所の年配者そのまんまだと、妙に感心したり、ああいう風にはなりたくないなどと考えておりました。
ところが他人事と思っていたはずの私にも、いつの間にか当てはまることが増え、なんともやりきれない複雑な気持ちでこの歌を味わう昨今となりました。
勿論、いつの間にかでなく、ひたひたと変わって行ったことに気付かなかっただけのことなのです。
はたして私自身の有様は、痛みや悲しさを伴ってしか気付けない愚かさがあり、そればかりか、我が事でありながらそれを見てみぬ振りさえする厄介なこころをもって生活しています。

  今までは 人のことだと思うたが
     俺が死ぬとは こいつたまらん (蜀山人)

仏法より賜る世界の一つとして、他人事から私事への目覚めと転換いうことがあります。これについては、お釈迦さまご出家の動機となった四門出游というお話にもあきらかなことですが、いただいたご縁に気付かされながら、力強く人生を歩んでいくことは、その縁が生かされ無駄にならない尊い生き方ともいえましょう。
生きるということは、わがままにならない厳しさがありますが、悲観的に物事をとらえていく嘆きの人生でなく、それがたとえ断片的なものであっても万物の現象に大いなる感動をもちつつ、能動的に限りある人生を生ききっていく。
それは、阿弥陀さまから私にかけられた願いより生じる力であり、
「我に任せよ、必ずそなたを幸せにさせる」とお誓いくださったお心に
おまかせしていける、安心よりわき起こる姿ともいえます。
阿弥陀さまのお心に出遇うとき、はからわれ、もよおされてある私の生命に気付かされます。
さらにこの私が無量なる世界へと導かれていることを知らされます。そのお心をお貰いしたおかげで、ままならぬはずの人生が、転換され、開放された柔らかき力を頂いて歩んでいけることを尊く仰がさせていただくばかりです。

 年令が高くなると、若さから解放される。
  今、その自由感に るんるん    (おかべ・いつこ:随筆家)
                               釋智見