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お盆に聞く  2006/8/1

燃える夏空の下、八月に突入です。
「夏」といえば・・・海!そして花火。お祭りに蝉時雨。
風にそよぐ風鈴の音色・・・。
色々な情景が思い浮かぶこの季節にお盆をお迎えします。
「お盆」は、お正月、ゴールデンウィークに続き長期休暇が取りやすいこともあり、ある種のイベント行事になってきているようにも思います。

先日も友人から「せっかくのお盆だから、どこかに出かけないともったいない。」という話を聞いたとき、
「いやいや、お盆とはご先祖のご遺徳を偲びながら自身を省み、そして今という時を問い、これからを語り合っていく。そんな大切な仏事だよ。」
との思いを飲み込んでしまったこともあり、今回の法話となりました。

お盆のイメージ。何人かの知人・友人に聞いてみると、多少の言葉は違ってもだいたいは「先祖供養」ということでした。
そこでこの供養という語を辞書で調べてみると、
「供給資養(くくうしよう)の義で、仏・法・僧の三宝、又は父母・師長・死者などに物資を差上げること。」(真宗新辞典)となっていました。
なるほど!それではどんな思いであろうとも物資さえ差上げれば供養になるのか。さらには自分にだけ都合のいい、目にみえる様な利益があるのかもしれない。    簡単、簡単・・・。
 
この文章をお読みのみな様もお気付きかと思いますが、これは余りにも偏った考え方であり、またすごく淋しい気持ちがするのです。

浄土真宗では、「常盆・常彼岸」と、いつでもお盆やお彼岸のお心を頂きながら大切に勤めていく床しい伝統があります。
しかし追われっぱなしの毎日になかなかそういうわけにはいきませんが、
せめてお盆やお彼岸に慌しい時間を止めて、
自分の命とは決して自分だけのものではなかった。
数限りない方の命が受け継がれ、あらゆる命に支えられ、今自分がここにある。
さらにその私の命が大事なんだと仰って下さる仏様がおられる。その阿弥陀様という仏様は、喜びにも悲しみにも、どんなことがあろうとも私と共に歩んで下さる。ご先祖の命を通じて私の命も考えさせていただく。
そんな思いでお迎えするとき、普段には合わさり難い両の手がそっと合わさる。

お盆や供養という語。言葉では知っていても、調べてみてもその先の思いや意味合いを、真剣に向き合っていくのはなかなか難しい私です。
外に願いをかけていくだけでなく、内にかけられている願いに耳を、
心を傾けてお盆の仏事を味わっていきたいものですね。
                                  釋 光乗