ひがん 2007/3/16
冬を感じさせない陽気からそのまま春を迎えました。
そんな陽気でも、あるご門徒さんは
「今日は普段よりも暖かいですね。」と言われます。
また別のご門徒さんは、
「今日は一段と寒いですね。」と・・・。
聞かさせていただいている私の感情も合い混ざって、
人の感覚はそれぞれに違うものだと思うことがあります。
そうした時に響いて下さるご和讃の一つに、
解脱の光輪きはもなし 光触かふるものはみな
有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ
(註釈版聖典557頁)
と示されています。
ここに「有無をはなる」と示されているのはどういうことでしょうか。
有無とは有見、無見のことです。分かり易く書かせて頂くと、有るとか無いといったことでしか物事を捉えることができない物の見方ということです。
損か得か。好きか嫌いか。これがAかそうでないか。そうした物の見方しかできないのが私ですよと顕されているのです。
しかし、この御和讃は「はなる」と説かれ、「断てる」とは説かれていないのです。
それはどうあっても断つことができない存在が私なのだと心底示された言葉でありました。
この私はどうなっても自分というものを抜きにすることができずその結果、悩み、苦しんでいる。その姿に、いや、その姿にさえ気付けていない私に既に大いなる悲しみをもって立ち上がられた如来さま。
悲しいという文字は羽が左右に引き裂かれるほどの心をあらわされているのです。
その大悲の中に「あなたの姿そのままに、どうか救われて欲しい。」と願われてある私の姿でありました。
そしてその願いは願いだけに留まらず、誓いとなって私にはたらき続けているのです。
全てが移ろう世の中でも、南無阿弥陀仏だけは
決してあなたを離さないよと。
阿弥陀さまの願いとは誓願といわれます。
誓願の誓とは誓い、血が通っているということ。
願とは願い、根が通っているということ。
つまり誓願とは阿弥陀さまの血が通い、根が通うまさに命がけの
おはたらきなのだよと聞かせて頂いています。
その命がけのはたらき場所が、まさに自分自身であったと頂いていくことは、それまでの自分の姿が写され、本来あるべき姿を鑑みることができるのではないかと思うのです。
お念仏にあっていくとは、自分の思い計らいで手を合わせていくのではなく、如来さまの大いなる悲しみの願い(悲願)に手が合わさっていくことではないかと思うのです。
合 掌
釋 光乗