迷子 2006/8/10
子どもが生まれて半年程経ちました。
多くの方の優しい気持ちに触れさせて頂き、すくすくと育つ子に
「よかったね。」と声をかけながら毎日を生活させていただいています。
思えば半年前、生まれてきた我が子はまだ目を開く事もほとんど無く、
大きな物音がすると両手を広げ「ビックリしたよ。」と私に訴えかけているようでした。
しかし最近では、目が見えるようになり、母親の姿を常に目で追っています。母親の姿が見えなくなると、とたんに口をへの字に変え大声で泣き始めます。いったん泣き始めると、どんなに私が気を惹こうとしても手足を大きく振り顔を赤らめ全身で母親を呼び続けます。
私はそんな子どもを見ながら、幼い時迷子になった事を思い出しました。
隣町に買い物に出かけ一緒に歩いていたはずの母親がいない。
今でもはっきりと当時の不安な気持ちを覚えています。
私は大きな声で泣きながら「おかあさん」と叫び続けました。
右も左も自分がどこにいるかも解らず、親切に大人の人が優しく声をかけてくれても、その声を振り払い走り回りました。
その後、母親に見つけられギュッと抱きしめられた時、先程までの不安な気持ちはなくなり、何ともいえない安心につつまれました。
方向も解らずただ闇雲に走り回った私。
私の子どもが必死に母の姿を目で追う姿。
他のことには目もくれず、ただひたすらに「お母さん」を求め続ける。
では何故、迷子になった私や私の子は母親を求めるのでしょうか。
それは物心付く前から母親は「私がお母さんですよ。」と何度も何度も
名乗り、どんな時でも優しく包み、安らぎを与えようとする母親の想いが
そこにあることに気付かされます。
その想いを子が受け取っているからこそ母親を求めずにはいられなかったのでしょう。
それでは、大人になった今の私は迷子にならなくなったのでしょうか。
勿論どこかに出かけて迷子になるといったものではありません。
心と生命の迷いということです。
一寸先は闇という諺もあるように「私の進むべき道や行く末は?」など
挙げればきりがありませんが、何ひとつとして自分ひとりで理解し予想し
解決できるものなどありません。
また真実に暗く、ありのままに物事を捉えることができない私です。
それはまるで、果てしなく続く暗闇の中を手探りで歩いているようなものではないでしょうか。
その不確かな迷いの人生を生きながら、その迷いにすら気付けない私を阿弥陀さまは、お救いの目当てとして下さっています。
遥か昔から「我が子よ。我が子よ。安心して私に任せよ。」と私を包み、
暗闇を破る光で常に私の心を灯し続けてくださっています。
また、その光は迷う私の姿をみそなわれた上で、いたり届いていた光であると気付かされたとき、私はそのお心にお任せするより他ない身であることを知らされました。
また、多くの想いの中に生かされている生命の尊さと、輝きをも知らされました。
願われ生かされる。私のこの身には大変勿体無いことですが、仏様のお慈悲の中で人生を歩ませていただきたいと思います。
釋 廣樹