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法乳  2006/8/20

「ご院主さん。仏様にはお願い事したらあかんのやろ。
感謝の気持ちを込めて、お念仏させていただくのが正しいのですよね。」
 とあるご法事の席でご親族の方が仰いました。  
「そうそう、私はいつも寝る前に、今日も無事過ごさせて頂き、
有り難うございました。とお礼をしていますよ。」
 続けて別の方がお話くださいました。

そこで私は次のような話をさせて頂きました。

確かに浄土真宗において、仏様にお参りするときは、「お祈り」や「願掛け」でなく、「お礼をする」という言葉が一番ふさわしいように思います。
先ほどお話くださったように「今日無事だったから」お礼をするということは、感謝のうちに一日を閉じる尊いお姿です。

しかし思いかえせば、毎日起こる様々な出来事には、とてもお礼など
できないほど、辛い事にも出くわすときもあります。          
そういったことを含めますと、「感謝のお参り」と言いながら、そこには願掛けと同じ次元で、仏様は私の願い(望み)をかなえてくれる方であると受けとめているとも言えるのではないでしょうか。

健康で長生き、家族が無事であることなど、誰もが願わずにはいられないことですが、限りある世界に生きる以上、いつか必ず手を離さねばならない日がやってまいります。
もし祈りによって病気が治るのであれば、世界中の人が老いながら生き続けているはずです。 これはこれでかなり残酷な話といえますが、
迷い真っ只中の私には、なかなか受け止めていけない世界なのです。

日々沸き起こる私の願いや望みを抑えることはできません。
しかもその願いの中身は、末通らない救いを求めているといえます。
その場しのぎの「まにあわせ」の救いということです。 
それによって縛られ安堵することができず、ますます泥沼の深みへと
進むことになります。 

阿弥陀さまは、不安を抱えたまま目先の欲望に振り回され続けている私を哀れみ、私の生命となりきって救いの法を、お与え下さる仏さまです。
こうした私と阿弥陀さまのつながりを
「母親と乳児」の姿から味わわれた方がおられました。

今のような暑い季節に乳児が「今日は暑いので、おっぱいを氷で冷やしてほしい」と飲むのを拒むことはありません。
寒い季節に「もっと温かい方がいい」と嫌がることもありません。
「そのまま」が最適な温度です。そればかりか、のどの渇きも栄養も、
抗体までも、生きていく全てが備わっています。
母親がおっぱいを出して子を優しく抱き取り「ハイ」と胸を口に含ませる。子がすることといえば、「そのまま いただく」だけです。

お念仏の法は、阿弥陀さまが全てを仕上げ 「受けよ」 と私にお与えくださる。たった六字の南無阿弥陀仏ですが、そこには阿弥陀さまの広大なお心の全体が凝縮されています。
受け取らせていただく「私の救い」が既に仕上がっているということは、
こちらが足したり引いたりできるものではありません。
「そのまま」受け取らせていただいた時、わたしが唯一させていただける
ことは「お礼」しかありません。

されど、受け取らせていただいたお救いが「そのまま」であることの
温(ぬく)もり、大きさに気付かされたとき、このままではいけないと、
目覚めを頂戴し、人生の苦悩を乗り越えていく力となってくださって
いることに気付かされてまいります。
限りある人生が、限りなきおはたらきをもった仏様から願われ、
無量なる世界へ導かれてあることをお聞かせいただいたとき、
「もう大丈夫」という安心を頂戴し、お礼せずにはいられないのです。

と、ここまでお話をさせていただいたとき、はたと気付かされました。
私自身、ここまでお聞かせいただいていながら、
お礼せずにはいられない気持ちになかなかなれないことを、
そのまま頂く事すらもままならない私であったことを。

阿弥陀さまがそこまでお見通しになられた上で、
「そのまま」とおっしゃられたことが、とても勿体無く感じられました。

最後に皆で称えたお念仏は、力みが消えた柔らかい響きで
私たちをあたたかく包んでくださっているように感じられました。

  み名(みな)こそは  万徳満つる法乳よ

         讃えざらめや  称えざらめや    (山本仏骨和上)
                               
                               釋 智見