常彼岸 2006/9/21
今春の法話「お彼岸からの声」で「常盆・常彼岸」という言葉を
紹介いたしました。
読んで字のごとく、いつでもお盆やお彼岸のような仏法第一の嗜みある
毎日を過ごす、という麗しき念仏の行者の日暮しを表す言葉です。
それをご覧下さったあるご住職様より
「浄土真宗ではない御宗旨に、その言葉は見られるものの、真宗では
聞かない言葉です。」とのご指摘を頂戴いたしました。
恥ずかしながら私が、いつ・どこでそのお言葉と出会ったかと回顧
いたしましたが、思い出せませんでしたので、お聖教を紐解きました。
はたして。
「改邪鈔」(ガイジャショウ)という本願寺第三代宗主覚如上人が
20箇条にわたり教えの邪正を述べられた書があります。
その第11条目は、
「二季の彼岸をもつて念仏修行の時節と定むる、いはれなき事」
というお言葉からはじまります。
この条に示されることは、
「阿弥陀さまは、既に全てを整えた上で私の浄土往生をお約束下さり、常にこちらに差し向けて下さっているのであるから、他の宗旨のように彼岸中に私の行く末の決判を仰ぐようなことは無い。それゆえ彼岸のみ起行に励むことは、教えに背く姿であるといえましょう。
さらに、阿弥陀さまから私に差し向けられたお心におまかせした時、
ゆるぎない安心に催されて佛恩報謝(お礼)の生活を営んで行く」
と味わえます。
浄土真宗が「他力」というお心を大切にしている要もここにあります。
仏様は私をすくいの目当てとして先手で、本願成就(私のお浄土行きのお約束)され、それをご回向(差し向ける)下さっています。
わたしはそれを受け取る(おまかせ)のみです。
いよいよ私のさせていただける事は、お礼するしかありません。
しかし、常に仏さまが私をご心配下さり、お与え下さっていても、
私に受ける器があるとは到底思えません。
それはまるで籠に水を溜めようとしているようなものです。
蓮如上人は、こう仰っておられます。
「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水の中に
ひたしておけばよいのだ」と。
そういった意味でもお彼岸中は、様々な仏事が営まれている季節です。お墓参りだけに終始することなく、仏法をお聴聞する大切な節目として、
ここからスタートすることも人生の大きな一歩となるように思います。
中日にあたる秋分の日は、
「秋分にあたり、祖先を敬い、なくなった人々をしのぶ日」
と謳われていますが、祖先が本当にお喜びくださるのは
「私が真の幸せに出会い、頂いた生命にお礼しながら日々を過ごすこと」
に尽きるのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
釋智見