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つながり  2006/10/11

最近息子と一緒に出かけると、一人の時には気付かなかった事が
目に飛び込んできます。
例えば夕方近くの公園に散歩をした時、じっと見つめる息子の
視線の先には蟻の行列を見ることができました。
そうかと思うと、急に手足をバタつかせ、眩しそうな顔で西に沈む
大きな夕日が私を照らしていることを教えてくれました。
挙げればキリがありませんが、普段生活している中では見逃している
小さな生命(いのち)の営み、私を包んでくださる恵の世界が次々と
私の前に現れました。
現れると書きましたが、それらは新たに出現した世界ではなく、
ごく身近にいつでも繰り広げられていることなのでしょう。

もちろん動植物などに限った事ではありません。
様々な人たちのご苦労や、連綿と受け継がれている生命も
同じ事が言えると思います。
私が今ここに居る為には想像も出来ないほどの様々なつながりが
網の目ように絡みあい、包まれ生かされているのです。
勿論それは蟻や太陽にとどまらず家族であったり友人であったり、
まだ気付けていない網の目も沢山あることでしょう。
もしその存在がひとつでも欠けていたら、そこには大きな穴が
開いてしまうのではないでしょうか。
逆に言えば、もし私がいなかったら・・・という事が出来るように
思います。

当たり前と思うことは決して当たり前なのではなく、
それにすら気付くことの出来ない、また目を向ける事が出来ない
私がおりました。
そのような私が仏教に触れ、仏様と歩ませていただくなかで、
日々の営みの中で見過ごしていた蟻に大きな生命を感じることが
できたように思います。
私という存在は決して一人の力で成り立っているのではなく、
私の周りに無数にはられたご縁が今の私を成り立たせて下さっているのだと味わう事で、子どもと共に見たある日の蟻や夕日が一段と輝き、
また手の中で無邪気にハシャグ子どもを抱きしめた時も、
その小さな生命にも抱きしめられている私がそこにはいるのだと
気付かさせていただけました。

つながり、生かされる私の生命。
 大変ありがたく勿体無いことです。
                               釋廣樹