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門徒ものしらず  2006/10/20

~ お念仏を依りどころとする 浄土真宗門徒の日暮らし ~

浄土真宗という宗旨を関西では「門徒」という言葉で
言い表すことが多いようです。
「お宅の宗旨はどこ?」とのお尋ねに、
「うちとこは、門徒」とこんな風に会話がかわされます。

本来、門徒という言葉は、「一門の徒輩(いちもんのとはい)」
という意味で、同じ宗門の仲間ということですから、元々は一つだけの
宗旨を指し示したものではありません。
しかし蓮如上人以降、浄土真宗が全国へ拡がり、門徒といえば
浄土真宗ということで定着してまいりました。

さて、その「門徒」という言葉の響きより連想されることは、
それだけでは無いようです。
多くの方が、「門徒物知らず」という言葉を思い起こされます。
しかも他宗の檀家の方だけでなく、ご門徒の方までが、
「うちは門徒やさかい、なんにも知らなくてええんや」と
その字面を鵜呑みにしあぐらをかいている現状を目にする時は、
なんともやりきれない思いに駆られます。

いくつかの説はありますが、「門徒もの知らず」という言葉には、
2つの意味が含まれているといえます。

一つめは、ご門徒の作法やお飾りが他宗旨と比較したとき、簡素なこと。
それは決して手を抜いたり、簡略化したわけではなく、教え
(阿弥陀さまのお心)から導き出されたものが、長い時間をかけ
淘汰され現在の姿となったわけです。
しかし、この清楚を好む宗風が他宗旨の方から見られると、
手を抜いているように写るようです。
確かに「まずは形から」という言葉が示すように、手間暇かけたことや
物質の量がその志の大きさを測る尺度となりそうなものです。
しかし、阿弥陀さまはそういうことに陥りやすい人(私)の心をも
お見通し下さり、全てを仕上げて「そのまま受けよ」とお与え下さる
仏さまなのですから、こちらから祈ったり、差し向ける必要が無く、
そのお心にかなう清楚な作法やお飾りを尊むようになったわけです。
何もしないとか何も知らなくて良いという次元ではありません。

ここで一つ矛盾が生じます。

それは清楚を好む宗旨といいながら、浄土真宗のお仏壇は金仏壇が
正式であり、清楚とは反対に非常に煌(きら)びやかなお荘厳(お飾り)
となっていることです。

この矛盾とも感じられるきらびやかお仏壇のお飾りは、
次の理由によります。
お仏壇は本堂の内陣を小さくしたものですが、本堂の内陣は、
お経に示された極楽浄土の麗しい功徳荘厳のはたらきを、私たちが
まどかにいただく手だてとして美しく形取られているからなのです。

次に、「門徒ものしらず」2つめの意味は、浄土真宗門徒の生活態度を
「門徒物忌(ものいみ)しらず」と言い表せるということです。
江戸時代の儒学者である、太宰春台の著した「聖学問答」に
「親鸞聖人を開祖と慕う門徒は病気の時に符水を用いず。これは
親鸞さまの力である」とご門徒の平素の生活を褒めそやしています。
科学が発達していない時代でありながら「物忌み事」に用事のない世界を
阿弥陀さまのお心より賜り、たしなみある日暮らしを営んでいる姿が
生き生きと感じられるお言葉です。
ところが、科学万能と錯覚するほどの現代でも、「占い」「日の吉凶」
「おはらい」「方角」などの迷信があふれ、それに振り回されている現代人の姿があります。ハイテクの固まりであるジェット機の座席や科学の粋といえる病院の病室ですら「4」や「13」が欠番であることからも、いかに人間は弱い存在であるかをうかがい知ることができます。

しかし、仏教はこのような迷信(物忌みごと)に対し
明確な道を示しています。
涅槃経には「如来法中 無有選択 吉日良辰」(ほとけさまの教えの中に、日の吉凶を選ぶこと有ること無し)とはっきり示されています。
兼好法師の徒然草の中にも「吉凶は人によりて、日にあらず」との
お言葉が如く。

今日は良い日悪い日と振り回されっぱなしの生活に安堵できることは
決してありません。
限りある迷いの真っ只中に沈む私の生命をあわれみ、「必ず救う」とお誓いくださった阿弥陀さまのやるせなきお心におまかせさせていただく。
ここに、いただいた生命が阿弥陀さまに既に抱き取られ、
限りなき世界へ導かれてあることを知らされ、
限りある生命を能く生きる力が恵まれて参ります。
それゆえ浄土真宗の阿弥陀さまのお心を依り処に日暮らしを営む私たちは、

「深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷やまじないを行わず、
        占いや日の吉凶や方角などの迷信にたよりません」

と胸を張ってお念仏のお心より「物忌み事」を取り払われた、賜りし生命を生き生きと過ごさせていただける仲間として生きる力を頂戴しています。

そろそろ年越しを感じる時節。
六曜や占いなどの惑いの種となる事が記載されていない暦の利用が
ふさわしく感じられます。
それは私の生命が仏様から丸抱かえされ、導かれた 
たしなみある解放の姿であることに気づかされます。 
                                  釈智見