いのち 2006/10/30
11月という響きに瞬く間に去り行く月日の早さを感じます。
あれだけサンサンと照りつけていた太陽も柔らかい日差しに変わり、
青々と輝いていた木々も徐々に色付きはじめました。
自分自身、今既に時の過ぎる早さを痛感しているのですが、
それでもお参り先でご門徒の方々が
「年齢を重ねるほどもっと時間が経つのが早くなるよ。」と
口をそろえてお話し下さることに、恐ろしさすら覚えます。
私の「いのち」
長い歴史を振り返っても私は一人しか存在しません。
そしてこれから先も二度と誕生することのない私の「いのち」です。
一日一日もあっという間に過ぎていきます。
しかしその瞬く間の一日も二度と繰り返されることはありませんが、
この一瞬一瞬が無数の縁によって支えられ成り立っている、
まさに偶然と驚きの時なのです。
ところが毎日が当たり前に繰り返されているように感じていると、そこへの感動は薄れ、感謝することなど考えられなくなってしまうものです。
『仏説無量寿経』というお経さまに、
人の姿を「在世間愛欲之中独生独死独去独来」
(人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独り生れ
独り死に独り来て独り去るのである。)とお示しになり、
さらにその後に「身自当之無有代者」
(みずから之を受ける。変わる者有ること無し)と
誠に厳しいお言葉で顕されています。
このお言葉。私の人生は誰にも代ってもらうことは叶わず、
さらには孤独な人生を淋しさでしか終われない存在であると
いうことを示す為だけに説かれたご文なのでしょうか。
阿弥陀如来という仏さまは私が気付くよりはるか前から、
この生死真っ只中の私の「いのち」をお救いの目当てとされ
「ひとりじゃないんだよ。共に歩んでいこう」と
名乗って下さった仏さまです。
そのお心は南無阿弥陀仏という言葉の仏さまとして、
私に満ち満ちてくれたのでありました。
孤独で終わるはずの人生に、
「終わりじゃないんだよ。仏と成り、始まると思っておくれ」と
その意味を転換して下さった仏さまでありました。
誰もがそれぞれの人生を歩みながら、散っていくのではなく、
共にお浄土という一つ処で再び会わせて頂ける。
そのことを思うとき、
別々の「いのち」は、つながっている「いのち」であり、
あたたかく共に輝いていける「いのち」に生かされてある
私の姿がありました。
南無阿弥陀仏の中で生かされていく「いのち」。
深く味わっていきたいものですね。
釋光乗